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  • 執筆者の写真Mai Ishida

ひろこちゃん



もうすぐ私の初個展が始まります。

(どうぞよろしくお願いいたします)


準備もほぼほぼできたからなのか、気が緩んで元旦に風邪を引きました。

今も鼻ズルズルで酸欠気味で、腑抜けた状態です。

そういう時こそ物思いに耽るに限るな。。


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私は日頃、自分を人と比べることがあまりありません。

比べるほどの絶対値がさほどないというのもありますが。


比較しない理由があります。


それは、保育園生時代から中学生時代までの間に私は、いつも幼馴染のひろこちゃんのことを意識しながら生活し、比較しすぎて疲れたからだと思います。足掛け10年間くらいだったでしょうか。


ひろこちゃんは、同じ学年で同じ団地に住んでいたので、仲の良い友人でした。

そこそこ鍵っ子だった私は、よくひろこちゃんの自宅に遊びに行きました。夏休みなんてほぼ毎日行っていたような気がします。ひろこちゃんとひろこちゃんの妹さんと3人で宿題をしたり、デザート食べたり、TVを見たり、お昼が過ぎたら団地のドッチボールクラブの練習に行ってました。


仲は良かった。

確かに仲は良かったけれど、私は内心ひろこちゃんに対してコンプレックスを抱いていました。


ひろこちゃんは、かわいい/やさしい/中背/痩せている/勉強が良くできる/運動神経抜群でした。同級生にとても人気がありました。そして、学校の担任の先生やPTAの方々、団地の育成会の大人の方々に「ひろこちゃんは出来がいい子だからね」といつも言われていました。


そして私は、何かをする都度、ひろこちゃんの壁に悩まされていました。


何度かこのブログでも書きましたが、私は小学生から中学生の間、いじめられっ子でした。おかげで己の内省時間を子供の頃から持つことができましたが、子供にとっての学校とは社会そのもの、唯一の社会とも言える場所だったので、数十年経った今でも辛い思い出です。

(今の私は、ふてぶてしさを存分に身につけてしまった・・・)


それに引き換え、成績優秀のひろこちゃんはいつも担任の先生に学業を褒められていました。

私はというと、学校はしんどい場所だったので、授業に集中することは出来ず(させてもらえない事態もあった)、勉強は苦手でした。


じゃあ、学校の外だったら自信がつくことができるかもしれない。

そう思った私は、自宅の近所にあった書道教室に通い始めました。


学業と違い、書道はやればやるほど楽しかった。亀の歩みだったけれど、徐々に字が上手くなっていきました。


でも、そんな日々は長くは続かず。

しばらくすると、その書道教室にひろこちゃんも通うようになりました。


ひろこちゃんに、「一緒に通えてうれしい!」と言いながらも内心は「また私は、ひろこちゃんと比較されるようになるのかな」と、不穏な気持ちになりました。


その予想はまたしても当たり、ひろこちゃんはみるみるうちに上達し、あっという間に私の級位を追い越し、段位レベルになりました。


もういやだ。ひろこちゃんから解放されたい。

ひろこちゃんは何も悪くないのに、ひろこちゃんに嫉妬してしまう自分が嫌でした。


そこで私は、書道教室を止め、練習をさぼりまくっていたピアノに力を入れるようになりました。

それまで、当時のピアノの先生は、指が短いせいでオクターブが届かず不協和音を奏でる私の手を何度もたたいていましたが(今だと問題行為な気も。。。)、「私はこの曲が弾けるようになりたいので、教えてください」と自分でリクエストするようになりました。


でも今思うと、楽譜通りには弾けない以前に、楽譜通りに弾かない私に先生は苛立っていた気がします。

スタッカートすべきところをスラーにしたり、プレストするようにという部分でアンダンテにしたり。お手本通りにしない(ホントは「できない」が正確なところですが)

ピアノ教室は8年通いましたが、本当にピアノが好きになったのは、教室を止めた16歳からだった気がします。


自由が欲しい。

音楽とか美術って、そもそも教科書が正解なの? てか、正解ってそもそも何?

正しければいいの?

そんなふうに思うようになりました。


ひろこちゃんは絵を描くのも上手で、これまた先生方にいつも褒められていました。とても綺麗な写実画を描いていました。

それに引き換え私は、なんだかよくわからない絵を描き、先生方にも「なんだかよくわからない」といつも言われていました。



よくわからない効果で、今でも私は絵を描くことが苦手です。

自分の意図とは違う出来栄えになります(苦)


もとい。ひろこちゃんの話に戻します。


中学校を卒業すると、私はひろこちゃんとは別の高校に入学したので、以降ひろこちゃんの動向をほとんど把握しなくなりました。

ああ、やっと比較されない生活を送れると、開放感を味わいました。


ところがいざ離れてみると、逆にひろこちゃんのことを時々思い出すようになりました。

そういえばひろこちゃんは、色んな人に褒められる生活を送っていたけれど、その時いつも笑っていなかったなと。神妙そうな顔をしていた、まったく嬉しそうではなかったなと。


そういえば。

ひろこちゃんはよく、隣の町にある、ひろこちゃんのおばあちゃんが住んでいる団地から通学していたなと。ほんとによく頻繁に。


あれはなんだったんだろう。


それがなんだったのかを知ったのは、私が大人になってからでした。


不思議な縁ですが、私が長年勤めていた会社に、ひろこちゃんの妹さんが働いていた時代がありました。1年間くらいだったでしょうか。

妹さんはそこで、ひろこちゃんが今どうしているのか、それまでどうしていたのかを教えてくれました。


それまでの私の記憶では、彼女のお母様はPTA会長をしていて、いつもひろこちゃんのことが自慢気そうでした。

それに引き換え、妹さんに対しては結構ワイルドな接遇だったなあと、幼な心に胸が痛んでいました(だから割と、私は子供の頃から妹さんにシンパシーを抱いていました)

そして、2人のお父様と仲が良くないんだろうというのは、空気でなんとなく察していました。


大人になってから妹さんに聞いた話は、両親の不穏から距離を置くために、当時のひろこちゃん姉妹はよくおばあちゃんの家にいたこと。

そして、ひろこちゃんは自分の世界を早く作るために、短大を出てすぐ結婚し出産したこと。

ひろこちゃん姉妹のご両親は、私が彼女たちと会わなくなった間に離婚し、お二方とも既に再婚なさっていらっしゃるということでした。


ああ。

さみしさだ。

自分の人生をハンドリング出来ないさみしさだ。

ひろこちゃんの横顔にいつもそれが潜んでいた。

(うまく言えないのですが、中原中也の『 山羊の歌 』を読んだ時に感じた、かなしみの影をひろこちゃんは幼い頃からずっと引き連れていたんだなと思いました。シチュエーション全然違うのに。。)


秀でている人は、かなしみの影を、呪いを背負っているのかもしれない。


そう感じるようになってから、私は、他人と比較することの疲労感に身を浸したくないと思うようになりました。

ひろこちゃんの横顔が、境界線を引いてくれたのだと思います。



蛾を見ると、ひろこちゃんと過ごした子供時代を思い出します。


毎週、団地の子供会のメンバーで団地の目の前にあった歩道橋の清掃をしていました。


秋になると、蛾の死骸がたくさん歩道橋に集まりました。

水分豊富な死骸と、粉になりそうな程形状が変わった死骸があり、箒と塵取りで取り除いていました。


蛾たちは自分の命を全うしたのだろうか。自分の命のハンドルを握っていたのだろうか。


今、ひろこちゃんがどこに住んでいてどうしているかはわかりません。

翅を広げ、好きなものを好きだと言える人生を送っていることを祈ります。


あなたのさみしさを理解できなかった己の幼さが情けないですが、あなたは身をもって、自分に集中することの大切さを教えてくれました。


不誠実な友人でしたが、今でもあなたのことを思い出します。人生の中で一番憧れた存在だと。










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