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  • 執筆者の写真Mai Ishida

何者

今日、新宿OM SYSTEM GALLERYで開催中の、川野恭子写真展「何者でもない」を見に行きました。




展示タイトルを見てふと、彼女と初めて出会った時のことを思い出しました。


川野さんは京都芸術大学(旧 京都造形芸術大学)の通信教育部写真コースの同級生でした。

初めて会ったのは、大学のスクーリングでした。

出欠確認で、川野さんのフルネームが呼ばれた時に、「あれ? 何か聞いたことがある名前のような気がするけど、誰やったっけ?」と思いました。


頭の中で悶々と誰だっけ振り返り祭りをしていたら、何者かを把握しました。

「あ・・・女子カメラ(雑誌)で、WBについて教えてくださった川野恭子先生やない!!? あれ、先生がなんで大学におるの? 写真の勉強は必要ないのでは??」と焦りました。

 ※女子カメラ(雑誌)では、当時新発売だったOM-D EM5を使ってマザー牧場で羊を撮っていた気がします。


お昼休憩の時に声を掛けました。

「あのう・・もしかして写真家の川野恭子さんですか?」と。


川野さんは真剣にバナナを食べていました。栄養補給に集中しているような姿でした。

そのガチでマジなバナナ食事シーンを見て、「あ、しまった、話しかけてまずかったかもしれない(汗)」と思い、私は後ずさりしました。


その後何がきっかけだったのかすっかり忘れましたが(同い年だから?)、気づけばお友達になっていました。昨今一番よく会っている人のような気がします。人生わからないものだ。


出会いから7~8年経ちましたが、今でも私にとっての川野さんは、真剣にバナナを食べる人=現状に甘んじず、足りないものを常に探して補っていこうとする人のイメージのままです。


大学のスクーリングでは、都度評価されても慢心せず、もっと改善すべきところはあるのではないかとずっと自問しているように見えました。

「そうじゃない。もっと出来ることがあるはず、どうしたらいいんだろう」と、自問自答を止めない様子でした。手を抜かず、気を抜かず。

「プロの作家さんがこんなに真摯に励んでいるのだから、私ももっと頑張らんといかんなあ」と、彼女の姿勢が刺激になりました。


川野さんは、いつぞやから山に魅了され、凄まじい頻度で山に登るようになりました。

そして、写真の色が大きく変わりました。淡い色が濃い色に変わりました。






この度の個展を拝見し、色々な気づきがありました。


霊的な世界、厳かな場所。のように見えるところは世界中に数多ある。

でも、その「何かありそうな場所」は、人間の知覚がそう位置づけ、価値観を次世代に繋げたことにすぎないのだろう。その「何かありそうな場所」自体が霊的なものを発しているわけではない、何も変わらない。


人間のアウトラインは不確かだ。主体と客観が合致していない。自分が何者なのかを朧気でもいいから知りたい。そのために、痛みや疲労、高揚を体感する。感情の前に感覚がある。

(山登りや海水浴、散歩、怪我など、他にも色々あると思いますが、感覚を以てして経験と成り、それが感情に繋がるのでしょう)


川野さんは、山に登ることで、命のアウトラインを掴もうとしているのではないかと思いました。


人間は比喩や引用を多発します。それは、既存の、過去のものを背負って今を見る行為に外ならず。前例があるから新しい未来を築けるとも言えるなあ。

(私、結構比喩が多い人間だ。あ、引用の頻発は発言の責任分散逃れのように感じるので、気をつけよう)



作品の話から逸れますが、川野さんは私が年中探している植物を道中見かけたら都度通報してくれます。とてもありがたいです。

去年開催した私の個展の搬入も手伝ってくれました。


ありがとう友よ!といつも思っていますが、時々魔が差して「あ、あの女子カメラに載っていた人気の先生だったよね確か」と微妙な気分になります。

雑誌に載っていた人が気づけばお友達。不思議極まりないです。




人間は、自我と共に生きる故に、塗り絵の縁取りのようなくっきりとした己の像を体感することは難しい生き物。


だから、何者なのか探しを繰り返すのかもしれません。



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