top of page
  • 執筆者の写真Mai Ishida

25年


2006年に書いた日記を転記します。


人は亡くなっても、生き続ける。


☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆


(2006年2月) いつものことですが、日記、長くなります。自分の日記でもあるので、どうしても長くなりがちで。申し訳ないです。 最近、大好き且つ尊敬していた方がこの世を去っていってます。 つい先日、詩人の茨木のり子さんが亡くなりました。 毎年1回読んでいる「詩のこころを読む」という、茨木さんが編集した本があり、そろそろ読み時だなと思っていた矢先でした。 昨日新聞を読んだら、訃報が掲載されていました。とても驚き、とても残念に思いましたが・・でも、どことなく悲しさを感じることなく、穏やかな気持ちになれました 理由は・・この本の最後のページに書いていた茨木さんのコメントを覚えていたからです。 『これから先、色んなことが科学的に解明されてゆくでしょうが、死後の世界のことはついにわからずじまいで最後まで残るでしょう。どんな敏腕なルポ・ライターも、あの世からのルポを送ることはできません。想像力を働かせ、それぞれが、ただふみ迷うばかりです。 でも、どうやっても、たった一つだけ、わからないことがあるというのは、考えてみれば、素敵に素敵なことではないでしょうか。 ではこのへんで この小さな本も さようなら』 茨木さん、どうかわからないことの旅を、穏やかに続けて下さい。今までありがとうございました、と、思います。 もう一人、思い出の人がいます。仰木彬さんです。 近鉄/オリックスの監督をされていた方です。


仰木監督は物腰のスマートさ、個を大切にしながらも、理論的。子供ながらにファンになりました。(岡本太郎デザインの帽子、超イケてます♪) 特に野茂/吉井の活躍時期はワクワクしていました。オリックスでもイチローを育て、大リーガーとして超一流になった選手を二人も育てた才能はハンパじゃないと思っていました(あ、オリックスは田口もいました!)。 関西の大地震後はブルーウェーブのユニフォームの腕に「頑張ろう神戸」を掲げて試合していました。企業の意向だったとは思いますが、でも仰木監督が指揮者になっているような、そんな説得力も感じさせていたと思っています。 実は私、仰木監督とお会いしたことがあります。大学時代に某○○署で毎年春休みアルバイトをしていたのですが、仰木監督は北九州の出身なので、毎春○○署に諸手続きに来ていたのです。 その当時すでに仰木監督の大ファンだっただけに、ドキドキしていました。いらっしゃった時は穏やかに頭を下げて、黙々と手続きをなさっていらっしゃいました。 でも私の部署は別部署だったから、直接接触することはありませんでした。だから残念で、気持ちが顔に出やすい私は多分、その時多分ブーたれた顔をしていたんだろうなと思います。 そんな私のところに仲がよかった統括2人(50歳くらいの男性でした。娘さんがいらっしゃらないからと、可愛がって頂いてました。ピアノの演奏会とかにも来てくれたことがあります)がやってきて「あんたにプレゼントをあげるっちゃ」といって、ビニールの包みをくれました。 なんと、仰木監督のサイン色紙でした。統括は、私が監督のファンだということを知っていたので、前日から色紙を購入してセッティングして下さっていたのです!

仰木監督のサインはそれ以後、ずっと部屋に飾っていたほどで、とても嬉しかったです。でも、統括さんの優しさが何よりも嬉しかったです。 もはやこのおじさま達とは接点はないのですが、私にとって大切な思い出になっていました。そして監督の訃報を知った時に改めて思い出しました。 でもニュースを知れば知るほどに、監督の人となりが伝わってきて泣けてきました。 今タレントをしているパンチ佐藤が芸能界に入るために、芸能プロダクションまわりを一緒にしていたそうです。 そして死の間際は・・巨人にこだわり続けていた番長清原選手の今後のことを思いやり、オリックス入りを成し遂げています。 ある日、ふと新聞で、清原選手が楽しそうに練習をしている写真を見ました。 なんだか憑き物が落ちたみたいに、後輩の面倒を見ながらキャッチボールを楽しんでいました。もう40歳間近で、自分のポジションを把握してきたのか、「(中村)ノリを4番に想定して、自分に何ができるか考えて野球を楽しみたい」というコメントが載っていました。 あれだけ巨人に、4番バッターにこだわっていた清原選手に、仰木さんは何を語ったんだろうなぁ。これも監督亡き今、『わからないこと』になってしまいましたが、それも『素敵に素敵なこと』なのかもしれません。 お二人には、安らかに、旅をして頂きたいと願います。

☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆


今日(もう昨日か)、テレビでJR六甲道駅の再建についてのドラマ 『BRIDGE』を見ました。井浦新さんの大ファンなので、ミーハーでテレビをつけたのですが、とある映像が流れた瞬間、涙が止まらなくなりました。


映像は、 オリックスとして初のリーグ優勝 で仰木さんが胴上げされているものでした。


あの時、沢山の人があの光景に感動した。それは間違いない。でも、もう25年も経ったのだ。震災後に生まれた人にとってはにわかに信じがたいことだと思う。


それは、私が長崎に対して感じる感情とおそらく似ていると感じます。

私は原爆を経験していません。しかしながら、祖母が生き抜いた人生を思うと、風化はしかたないとは割り切れないのです。

何ができるのだろう。月日はどんどん経過するのに、自問ばかりで前に進めていません。


子供の頃、天神ショッパーズの1階に貼られていたド派手なポスターの前で、「8月9日は原爆の日なの? 私はあと少ししか生きられないの?」と家族に質問したことがあります。

(過去の日記を振り返ると、まあ、質問の多い子供だったのだなあと思いました)


当時はあまりにも幼すぎて、長崎の原爆投下が過去のことなのか未来の予告なのかわからなかったのです。


人の記憶は揮発するし、謎のアレンジをすることもある。記憶は、まるで影踏みのようだ。


仰木さんの思い出は、可能であれば、老いるまでずっと持ち続けたいです。




bottom of page