良さげなものを安易に出そうとすると、ろくなことはない。本質から逸れる。
それを、20歳の頃に北九州の大学で出会った、中国からの留学生が教えてくれました。
最近よくその留学生の女性のことを思い出します。
私は、大学内のピアノサークルに在籍していました。
不真面目な部員で、サークルではピアノの練習よりも、ドライブや麻雀、部室でのオール飲みを満喫していました。
年2回の演奏会の参加が必須でしたが、演奏する曲は毎回行き当たりばったりで決めて練習しました。
「下手な私でもそれなりに聴こえる曲選んどけ」と、邪な気持ちで取り組んでいました。
サークルに入って2年目に、胡さんという中国からの留学生が入部しました。
胡さんはピアノに全く触れたことのない初心者でした。
私は部室に居ることが多かったので、彼女に会った時はバイエル教本に載っている曲をいくつか教えていました。
胡さんは口数が多い方ではなく(日本語ではそうなのかもしれない)
おとなしい方で、黙々とピアノの練習をしていました。
同じ年の12月に開催する定期演奏会で、胡さんは「川は呼んでいる」を演奏しました。
「川は呼んでいる」はシンプルな旋律で、初心者向けの曲です。
胡さんの演奏が始まった途端に、私は衝撃を受けました。そして焦りました。
こんなシンプルなメロディが、なんでこんな豊かな調べに聴こえるのだろう。
見果てぬ夢を見れるような、世界の広がりを感じることができるのだろう。
音から色が見える。温かな空気を感じる。緩やかな磁力に惹きつけられる。
胡さんの演奏を聴いて、自分の心の持ち様が愚かだと突きつけられたような気がしました。
「川は呼んでいる」
(GarageBand App使用、イシダ マイ演奏。胡さんの演奏と違いすぎる。。)
私はジョージ・ウィンストンの“Variations On The Kanon By Pachelbel”を演奏しました。
とてもデコラティブな曲です。
そんな曲も弾ける人に見られたい。そう思って選曲して演奏しました。
結果、邪な気持ちと結果の帳尻りが合ったようで、おかげで演奏会本番の出来は悲惨でした。
リズムがぐちゃぐちゃになり、音の繋ぎがバラバラになりました。
最後のトレモロでは指がもつれ、迷走を極めました。
この日の演奏会のことは、今でも時々思い出しては恥ずかしくなります。
作品よりも自分が目立とうとすると、グダグダになる。反面教師な思い出です。
ところで私は、四十路になってからまた大学に入学し、写真を勉強しましたが、入学して1年半くらいは、何を写真に撮りどう纏めるべきなのか。全くわかりませんでした。
いわゆる「映え」な写真を提出し、先生に怒られたこともあります。
叱られた授業の後、自分の心に沿って動き対話できた視界を纏めることが
作品作りなのかもしれないと省みり、今に至っています。
当時と変わらず、今も相変わらず、纏めることは難しいです。
(でも、時間をたっぷり使って、心裏にノックする時間は至福です)
胡さんの『川は呼んでいる』の調べは、私の軸がぶれそうになる時に脳内で再生されます。
演奏を聴いて20年以上経ちましたが、胡さんの演奏は、今でも時々リフレインします。
虚栄心の虚しさを思い出し、都度己の制御になっています。
シンプルな曲程難しいものはない。
飾りのない世界で、自分の感受性をシンクロさせて演奏した胡さんを
私は今でも尊敬しています。
もう会うこともないからかもしれませんが、だからこそ胡さんの存在が
年々大きくなっていきます。
私は今、良さげとは程遠い不器用な作業でできたものを、作品に纏めようとしています。
不器用が繋がった姿を自分が見たくて、それを見てあらためてどう感じるのか。
その時間に到達したくて、日々を捧げています。
時間が思考の地層を作ってくれることを信じて。
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