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心の扉を開く鍵

執筆者の写真: Mai IshidaMai Ishida



福岡在住の友人、写真家兼文芸家の松下とも子さんの短編小説『ひかりの子』を読みました(第54回九州芸術祭文学賞佳作作品)


泣きました。

終盤の離陸感。思い出を仮糸でまとめてぐし縫いし、また糸を解くような展開に心を掴まれました。

福岡県豊前市の豊かな自然、コロナ禍の混沌、愛しい存在を失う始める年代の始まりが、激しい揺さぶりをかけることなく綴られていました。ミシンのスピードのように規則正しく前に進んでいきます。


霊的な存在は自分の心の中で生かされるものなのだと感じました。実存しているのか誰にもわからないゆえに、己の心の中で伸縮していきます。一行通行なのか交信しているのかが定かではない状態で。


松下さん(以後、まつともさん)は私と同じ年齢で同じ福岡県出身です。

まつともさんが開催していた東京での個展にお邪魔し、お友達になってくださいとナンパしました(笑)

時間のやるせなさと致し方なさと未来への微かな光が感じられる素敵な作品を拝見し、一目惚れした次第です。


今回読んだまつともさんの小説『ひかりの子』を読み、ずっと心にしまっていた私の心の闇扉が開かれました。故人との問答シーンで涙腺が崩壊しました。


私の闇は15歳の頃の出来事です。

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高校受験をが迫った12月のことでした。

中学2年生の時に一番仲が良かった友人が自ら命を断ちました。


友人みつは、背が低く、昭和のアイドルの定番だった聖子ちゃんカットを模したヘアスタイルで、愛くるしい瞳をくるくる動かすとても可愛らしい女の子でした。

パーマをかけていないのになんでこんなに波打って綺麗にブロウできるのかと見とれ憧れました。


彼女はいつも笑顔でした。

反面、中学2年生当時の私は絶賛いじめられっ子で暗い表情をしていました。


いじめは今思うと中学2年生の時が一番ヘビーでした。

給食に消しゴムのカスを入れられたり、上履きに唾を吐かれたり、私がいかにいじめるに相当する人物なのかを語るラップ調の歌を作られ歌われたりしていました。


いたたまれず、私は出席日数上限ギリギリまで学校を休むようになりました。

休むことで状況が解決するわけではなかったのですが、苦しむ時間の削減によって不登校状態にブレーキを掛けることができました。おかげでなんとか中学3年生に進級しました。


そんな最悪の中学2年生を通過できたのはみつのおかげでした。

不登校だったので、私の学校の成績はとても悪かったです。後ろから何番目な順位でした。このままでは、出席日数よりも学力の低さで卒業できなくなるかもしれないと危惧しました。


そんな時に、みつは自分が受講している高校受験対策の某通信講座(⚫︎⚫︎ゼミ)を私に紹介してくれました。地味で友達もいない私に、なぜか声をかけてくれました。

私はみつと友達になれるかもしれないと思うと嬉しくて仕方がなく、その通信講座に即入会しました。

すると、予想外に勉強が楽しくなりました。学校を休んだ日も中毒のように通信講座で勉強し、気が付くと成績は上位10名くらいの順位まで上がりました。


不思議なことに、成績が上がってくると、いじめっ子に負けない要素を1つ持てたような気がして、ラップ調の私のいじめテーマソングを影で歌われても遠吠えにしか聞こえなくなってきました。


修学旅行の班もみつと一緒になりとても嬉しかったです。

一緒に行動した時の写真は今も私の宝物です。学校に行く理由ができたことで、私にも未来があるのかもしれないと希望を持てるようになりました。


翌年中学3年生になるとクラス替えがあり、みつとは別のクラスになりました。クラスのフロアも別でした。


寂しかったけれど、新しいクラスではいつも一緒に過ごせる親友が2人もできました。3人ではしゃぐのが楽しく、真面目に学校にも通うようになりました。


みつも新しいクラスでとても仲が良い友人ができたようでした。

LINEやメールがない時代なので、クラスが変われば近しさは徐々に薄れていきました。

そして、自分が遅ればせながらの中学校生活を楽しんでいる間、みつの近況を把握しなくなってしまいました。


みつが亡くなる前日。私はたまにしか集まらないクラブ活動/手芸クラブで久しぶりにみつの姿を見ました。

(手芸クラブは運動部のような活発ではない雰囲気が楽で、親友2人と一緒に入部しました。手芸をすることはほとんどなく、ただただおしゃべりに夢中になっていました)


ふと振り返ると、みつが1人で佇んでいました。

みつの顔に傷がついているような気がしました。いつも笑顔だったのに、血の気がない暗い表情でした。


声をかけようかなと考えたものの、私は友人との楽しいおしゃべりにかまけていたので、「まあ、いいか。明日みつがいる1組にでも行ってみようかな」と思い、クラブの部屋を後にしました。


翌朝、みつは亡くなりました。


私は中3になって以来、多少の校則違反をしても平気なメンタルになっていました。禁止されていた近道を歩いて通学していました。


その日、電車が変な場所で止まっていました。私のいる場所から100mくらい離れた線路に電車が止まっていました。


福岡は首都圏と違って人身事故がレアな街です。車両故障でもあったのかなと呑気に捉え、禁止近道にある歩道橋に登り、止まった電車の上を通過しました。


学校に到着してからすぐに行われた全校集会で知りました。


なんでなん。なんで私を救ってくれたみつが亡くなるん。

嘘だ。みつがいじめられていたなんて嘘だ。なぜ笑顔が死因にならんといけんの!


同じクラスだった中2時代、「イシダぁ。私ね、いつかドラマに出るようなかっこいい人と出会いたいな~」と笑顔で夢みがちなことを言っていました。

数学が好きで、国語よりも漫画が好き。美味しいお菓子に目がない、そしてとびっきり可愛い。そんなみつがなんでなん?


というか私、みつが亡くなっている現場近くを歩道橋で通過したってことよね。

昨日声をかけていたら、ほんの少しでもみつの心に風が吹いたかもしれないのに。

恩知らずだ自分。


受験勉強なんてどうでもいい気分になりました。心がカタカタと崩れていきました。


亡くなった原因は、所詮人づての報告内容でしかないので、本当のところは分かりません。いじめがあったと言われても分かりません。

はっきりしていることは、事件後中3生学年全体に絶望感が漂ったことです。


大半の中3生がみつのお葬式に参列しました。

たくさんの報道陣がお葬式や学校の校門にやってきました。


日に日に怒りの気持ちが湧くようになりました。

なぜなら、みつがどんな子だったかに関しての報道が割と当たっていなかったからです。

みつはセンセーショナルな亡くなり方をしたけれど、彼女はその出来事のために生まれたんじゃない。憤怒を抑えられなくなりました。


校門の前にいる報道陣に対して、ヤンキーな男子達が給食のパック牛乳を水鉄砲のように発射していました。その牛乳が描いた弧線が忘れられません。

あの当時は、生徒や先生方が一丸となって、互いを慰め支え合っていたように思います。


みつの死後、心の折り合いをつける一環で、私は当時毎日ショパンの雨だれの前奏曲をピアノで弾いていました。いつか心の雨が止まないかと願って。




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みつが亡くなってから30年以上の月日が 経ちました。


亡くなった直後泣いてばかりいましたが、ある時から己の心の中で一方的なみつとの交信を始めるようになりました。

空を祭壇にして、独り言の如く彼女に一歩的に話しかけていました。


構成はいつもほぼ同じです。

私が心の中のみつに相談し、「イシダぁ、もうさ~気にしなくていいよ。」と明るく返事してくれることを待つワンウェイな問答でした。

ネタは大体、仕事がうまくいかない/恋がうまくいかない/福岡を出て人生を切り開きたい、この3つしかなかったよう思います。


みつが亡くなってから、辛い思い出が多い福岡からいつか離れ人生を切り開きたいと思うようになりました。遠いところ、そうだ東京くらいの遠方に行って一から自分をやり直したいと。

福岡はご飯は美味しいし好きな場所も多いけど、様々な己の境遇が鳥籠のように感じるようになりました。


35歳を過ぎた頃から(私が当時勤めていた会社の異動願を出して上京した時期)、心の中で対話するみつの顔の中身が見えなくなってきました。へのへのもへじとまでは言いませんが、顔の中のパーツにフェードがかかってきました。


そして、私に家族ができたり更年期症状で悩まされたりするうちに、みつとのワンウェイ交信をする回数が減少しました。

当然と言えば当然。いつまで15歳のみつに相談してるんだって話です。


私はあまりにも長い歳月みつを引き留めていたのかもしれません。

肉体を持たないみつのことを、私は無理やり自分の中で生かし続けていたようです。


みつが亡くなった鹿児島本線の線路は今では高架式になり、当時の面影は全くありません。

通っていた中学校も移転することになりました。今となっては夢のように跡形もありません。


去年、溺愛していた愛猫/まさおが13歳で亡くなりました。

かなり落ち込みましたが、徐々に心の折り合いをつけ始めました。


折り合いの付け方として、自分の心の中でまさおとワンウェイ交信を始めるようになりました。すると、私の頭の中のみつが入れ替わりにそっと旅立っていったように感じるようになりました。


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猫のまさおが亡くなったことはとても寂しいです。

でも、私は先に死ぬことなく最後までお世話できたんだと思うと、自分に対して安堵と労いの気持ちも湧くようになりました。


そうだ、私にはピアノがある。下手くそだけど、弾いている間はとても自由になれる。そう思い、今シューマンの子守歌を練習しています。子どもの発表会とかでも演奏されるような難易度が高くない曲です。


残りの人生、私はあと何曲ピアノの練習ができるのだろう。自分の心を彩る曲を少しずつ選んで、焦らず練習します。

節目に選曲してピアノを練習する。そんなことができるのは、恵まれた人生なのかもしれません。


まつともさんの短編小説のおかげで、私の心の扉が開錠され、風通しが良くなりました。ありがとうございました!




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