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執筆者の写真Mai Ishida

片道の手紙



人との出会いは一期一会。


これからもずっと私の中で生き続けるだろうという思い出がいくつかあります。

そのうちのひとつ、27歳の時のベトナムひとり旅での出会いを記します。


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長年好きだった人との繋がりを切断してしまいました。自分の人生の舵取りができないまま生きてしまいそうな気がしたから。

決断してよかったのかわからない。多分、良し悪しの分別がつかないほど追い込まれているのだろうな私は。


自分にもできることがあるのだと実感したい。

仕事に繋がると思い一般旅行取扱主任者試験を受験したけれど、合格した瞬間に達成感は薄まってしまった。

違う。勉強とかじゃなくて、自分に足りないものはおそらく勇気なんだろう。


そうだ。ベトナムにもう一度行こう。あそこは私が初めて行った外国だ。行けば自分が根本的に変わったのかどうかを知ることができるだろう。


でも本当は海外ひとり旅が怖い。楽しかったといつも結論づけているにも関わらず、最初の一歩が怖い。おそらく、初海外のベトナムで食中毒検疫に引っかかってしまったことが内心私を臆病にさせているのだと思う。


初海外旅行の24歳当時、ベトナム女ひとり旅は珍しかった(観光ビザの申請をしないといけなかった)。

関西空港の搭乗ゲートで知り合った三重の企業の人たちは、不安げな私の姿を見てかなり心配してくれた、まるで親族のように。

食あたりで寝込んでいた時、おじさんたちは私のホテルの部屋にまで電話をかけてくれて元気づけてくれた。そのおじさんたちが所属する会社の跡継ぎの男性と仲良くなったけれど、旅の魔法が解けると縁は容易く途絶えた。


ああ、やさしさと薄情さのバランスに戸惑うのが苦手だから、海外ひとり旅が怖いと思うのかな。

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28歳の時、2度目のベトナム一人旅をしました。


旅行2日目、ホーチミン歴史博物館に行くことにしました(この写真はホーチミン歴史博物館ではなく、美術館です)

滞在中のホテルから博物館まで距離がありました。私の凄まじい方向音痴では辿り着けない気がして、タクシーをホテルで拾って向かうことにしました。

このぼったくりタクシーがその後の旅の運命を変えることになるとは露とも思いませんでした。


ぼったくりだと気づいたのは、ドライバーが遠回し運転したりわざと渋滞する道を通っていたからでした。メーターがガソリンスタンドの給油メーターのようにぐんぐん上がっていきました。やっとのことで歴史博物館前に到着しましたが、請求されたのは多分通常の10倍くらいの運賃額でした。


下手な英語で「これはおかしい、ホントはこれくらいの運賃のはずですよね?!」と言っても相手にされず。問答繰り広げていると、私の乗っているタクシーのせいで片道一車線の道が大渋滞していました。後ろから現地のドライバー達からの罵声がたくさん聞こえてきました。


早く切り上げないと危険だ。

怯えながら、博多弁で「〇〇〇円以上ははらわんけんね! ばりむかつく! なんばいいよらすと?!」(確かそんな口調だった)と啖呵を切ったところ、タクシー運転手が「もういい、はやくおりろ!」的なベトナム語で返してきました。そして通常の70%増しくらいの現金を叩きつけるように渡して車のドアを激しく閉めて降りました。


ぼられた自分の未熟さに情けなくなりました。歴史博物館に入りコリドーに着いた瞬間、大人げなく号泣してしまいました。寂しい。心が空っぽだ。情けない。


誰でもいい。誰でもいいから話したい。

心を落ち着かせるために、コリドーのど真ん中でキャンバスを置いて絵を描いていた女性に声を掛けました。

その女性は「あ、私、日本人です」と返してくれました。白いTシャツ、白いダボダボしたパンツ姿。艶のある黒髪ショート。アーティストのオノ・ヨーコさん似のはっきりした顔立ち。50代くらいの女性でした。


「あなたは、多分いい人ね。わかった。今日一日一緒にホーチミンを回りましょう。

私はもうすぐ日本に帰国する予定なんだけど、未だに観光していないのよね。つきあってくれる?」彼女(以下、ヨーコさんとします)はそう私に告げました。


私、もしかしたら、これナンパしちゃったのかな、うぐぐ・・とは思ったのですが、これから何があるのか見たい知りたいという好奇心が上回り、一日ヨーコさんとご一緒することにしました。

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ヨーコさんは絵の具まみれの服を着ていたので、着替えてから観光しようということになり、彼女の自宅に招かれました。自宅はてっきりアパートかなと思いきや、真っ白な豪華マンションでした!


彼女は、某大企業の工場責任者の奥様でした。

「綺麗な格好をしているとすられるかもしれないし、絵を存分に書きたいからねえ(だからこんな格好をしているの)」と仰せ。ナンパ、すごい魚を釣ってしまった(叫/震)


ヨーコさんとはベトナム料理店でランチした後、名前は忘れたけどメコン川沿いの公園に行き、ディナーを食べ、夕刻には別れました。

「楽しかったわ。あなたと会えてよかったわ」とヨーコさんは言いました。でも決して「また会いましょう」とは仰いませんでした。


ただなぜかヨーコさんは私の滞在しているホテル名を尋ねました。なんで??と思いながらも、赤の他人の私にご馳走し観光に 付き合ってくださった優しい方だからまあいいかと思い、ホテル名と私の名前を伝えて別れました。


翌日、私はひとりでホーチミンやミトを観光しました。


たらふく遊び夕刻にホテルに戻ると、部屋のテーブルに謎の豪華フルーツ盛り合わせが置いてありました。訳が分からず動揺していたら、ホテルの責任者が私の部屋に来ました。

「〇〇社の●●様の奥様より連絡をいただきました。『私の大切な友人があなたのホテルで拾ったタクシーで不当な運賃請求をされたのよ』と仰っておりました。大変申し訳ございませんでした! お詫びにこちら(豪華フルーツ)をお納めくださいませ」とのこと。


何、これ。泣いてもいいでしょうか。今、人の優しさへの耐性がないよ。


感動していたら、ヨーコさんから私の部屋に電話がかかってきました。

「驚かしてしまってごめんね! 昨日は付き合ってくれてありがとう。とても楽しかった。

日本に戻る前にいい思い出が出来た。ありがとう」とヨーコさんは弾んだ声で私に告げました。


お礼を述べた後、私はヨーコさんとのつながりができたことが嬉しかったので、「ヨーコさん、日本に帰国したらまた会いましょう! 住所教えてください。手紙を書きます!」と返答しました。

故郷福岡に帰り仕事に励みました。ヨーコさんが帰国する春には手紙を書こうと胸を踊らせながら。


片道の手紙への返信はありませんでした。

その後私の仕事は忙しくなり、亀の歩みではあったけれども、少しずつステップアップしていきました。月日を重ねてもヨーコさんからの手紙は私の元には届きませんでした。


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憶測に過ぎないのですが、おそらくヨーコさんは、私との関係は旅の間のみと初めから察知していたのではないかと思います。

旅での出来事はどうしたってドラマチックな思い出になる。その思い出が自分にとって大事であればあるほど、純度の保ち方を考えてしまいます。


ヨーコさんとの出会いからもう長い歳月が経ちました。今ヨーコさんがご存命なのか、どこにいるのか。そもそも本当のお名前は何だったか。覚えていません。

でも、この時の旅の思い出は数十年経った今でも私の中で鮮明で、写真よりも明確に記憶しています。


私もこれから徐々に老いを重ねていくことでしょう。記憶の鮮度はおそらく変わる。

だからまだ思い出が鮮やかな今、ヨーコさんありがとうを日記にしたためます。

旅は私に変化をもたらすことはなかったけれど、誰にも譲れない思い出を持つことができました。


海外旅行すっかりご無沙汰だな。また行きたいです。一期一会の出会いが永遠の出会いとなることがあるから。

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